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by toki1935
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街角散策

病気療養中にてご無沙汰いたしておりますが

 今しばらくにてお目にかかれることと存じます。
# by toki1935 | 2008-11-09 08:55 | 合   志   市

街角散策

百 騎 帰 (ひゃっきがえり)

 合志市 大津町 菊陽町の境、(杉水)に百騎帰なる標識が立っております。
あらましは簡単に記してありましたが 帰ってから検索してみました。
 大津町のホームページに下記のように記してあります。

 淀 姫 神 社
 菊池から阿蘇への古来の交通ルート上に位置する平川には、古くから多くの
神社やお寺があります。
 なかでもこの神社には、次のような伝説があります。

 『平安の初め』 肥前(佐賀県)川上に ( 玉かづら )という有名な美女がい
ましたが、ある時豊後(大分県)からとも、阿蘇からとも言われている忍びの者
達が、この美女を盗み出し、平川まで逃げてきました。
 玉かづらは、信仰する淀姫神に一心に助けを祈りました。

 すると、百騎ばかりの侍が現れて、忍びの者達から 玉かづらを救い出しました
 そこに、姫の一族の者たちが追いつくと、百騎の侍はいなくなりました。
 これは、淀姫神のお助けであろうと、すぐに宮を建て淀姫宮と名付けました。
 また、侍たちの消えたところを百騎帰(杉水)といいます。
 
 『 合志川芥 』 より。

街角散策_b0041933_1614075.jpg

大津町平川の 淀姫神社です。
街角散策_b0041933_1613825.jpg

 樹木に囲まれ静寂の中に 佇んでおられます。

 淀姫神社は佐賀県に多く分布し、淀姫を祭神とする神社だそうです。
 平川の淀姫神社は 『 菊池郡神社誌 』 によると、戦国時代に創建されたそう
 です。
 当時、この地域一帯は広く肥前の龍造寺勢力と豊後の大友勢力との対決の舞台と
 なっていたようです。
 伝説も、ここを舞台に肥前の勢力と豊後、阿蘇との関わりを示しているようです。

 大津町平川?? 地理に真っ暗で 天翔さんに平川への道を照らしてもらいました。
  平安時代の初めとありますから 約1200年ぐらい前の 伝説です。


  大津町ホームページ 淀姫神社       大津町教育委員会
                               生涯学習課
                               生涯学習係

   上記を参考とさせていただきました。

 

# by toki1935 | 2008-06-17 14:19 | 合   志   市

街角散策

竹迫城にまつわる伝説
 合志の殿さんの奥方は蛇だった。??

合志の城山 竹迫城は合志市上庄 ( かみのしょう )にあります
一度 ドライブのお帰りにでもちょっと寄られ 昔の景色の中に入ってみられては
いかがでしょうか  また変わった気分に浸れますよ。

 竹迫城が出来た頃。
 耳なし芳一の物語でご存知の 『 壇ノ浦の戦い 』で平家が滅亡して、源平時代
が終わり,世は源頼朝にはじまる武家政治の 『 鎌倉時代 』 となります。
 壇ノ浦の戦いは、元暦2年 (1185年) のことで平家を滅ぼした源頼朝は、その
年に年号を 『文治』 と改めました 今からちょうど800年ぐらい前 竹迫城はその
年代に築城されました。
街角散策_b0041933_15533264.jpg

 初代城主 『 中原師員 なかはらもろかず 』 はある夜、竹の迫に霊剣がきらめ
く夢を見て、あくる日 『 名剣 』を得たので、これは吉兆だと喜び、今までの姓を
中原から 『 竹迫 』 に変えて 当地方を竹迫と改めたといわれています。
街角散策_b0041933_1624774.jpg

 竹迫氏の初代師員公から代々時は流れ、世は源氏から北条へ、そして北朝時代
の激動を経て、足利将軍の室町時代となり、やがて応仁の乱となり、戦国時代となる
わけです。
 竹迫城城主 竹迫氏の時代は三百二十年で終わり、合志氏の時代(八十年)が
始まります。

竹迫城の殿さんの奥方は蛇じゃった。
 殿さんのお嫁さんは 薩摩の島津さんのお姫様で それはそれは美人だったそう
です。
 しかし、このお嫁さんは時々城を抜け出してどこかへ行くという噂がありました。
ある日、不思議に思った殿さんの家来が確かめようと思い、お姫さんの後をそーっと
つけて行きました。
 お姫さんはなんと、城の下にある蓮池に行き、水浴びをしていたのです。

街角散策_b0041933_16411766.jpg

  お姫さんが水浴びをしたのは このあたりかな~~

 突然 バシャッと水音がしたので ハットして振り返ると お姫さんの体が
蛇となって蓮池の中を泳いでいるではありませんか。
 も~~家来は びっくり仰天して 城に帰り殿様に告げたそうです。
殿様も非常に驚き 手紙をしたためて 離縁の運びとなります お姫様は全く覚えて
おらず 泣く々薩摩に帰ることになったのです。

 島津の殿さんは非常に怒り この竹迫城に戦いを仕掛け落城させてしまいます。

島津勢による竹迫城との合戦は 天正13年、現在よりおよそ400年前甲佐の堅志
田城を攻め落とし その勢いで木山城~津森城~を制圧し 矢部の阿蘇氏を屈服さ
せ とうとう竹迫城を落城させるのです。
街角散策_b0041933_1932232.jpg


  ( 城内の この坂道を 武者たちは血と汗にまみれながら 生存を賭けて 
    明日に向かって 駆け抜けていったに違いないのです)。
   
     いずれも つわものどもの夢のあとです。
 
  理由はどうあれ 島津勢が竹迫城を攻め落としたのは 歴史上の事実です。

  


  竹迫城と須屋城      歴史資料館資料 NO 35
                  合志市合志歴史資料館


   上記を参考とさせていただきました。




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# by toki1935 | 2008-06-08 11:18 | 合   志   市

街角散策

淵 源 回 顧 之 碑

 国道387号線沿い 須屋黒石2556-1黒石日吉神社境内に 『 淵源回顧之碑 』
(えんげん かいこのひ) が建立されています。
 この碑は 藩主細川忠利公が入国してから 茫々たる合志原を開拓せんと黒石を含
む五箇所に 諸国の浪士を収容し開墾に従事せしめたとあります。
街角散策_b0041933_12352563.jpg
   
時は寛永13年 黒石地区の開墾に従事されたのは 黒石組36人
各禄高二十石といわれています。
 常時は自主自営の農耕にいそしみ 戦の時には細川家の武士として島原の役、
ペルー来航の浦賀の戌にも参戦したと記されております。
須屋 黒石には川が無く さりとて水も無くそれゆえ非常に困難な開墾状況でした。
先人たちの 辛苦の程が今更ながら偲ばれます。
街角散策_b0041933_13585371.jpg

 同年九月霊験により黒石日吉神社が建立されます。
街角散策_b0041933_1471217.jpg
/
 淵源回顧の碑の碑文は 最後に 
 
 今遠く遠祖の労功懐ひ近く中祖の堅持を顧み現代の盛運を賀し茲に古語を録して
以って先功を頌し後昆に諗ぐ   とあります。

 現在の合志市の繁栄は 先人たちの 気概と 血と 汗と 涙の
賜物であることを絶対に忘れてはなりませんぞ。

 ちなみに 加藤清正が熊本城を築城するわけですが 加藤清正が49歳で
死去したあと 後を継いだ忠広は10歳でした 幼君であった関係か家臣団に
勢力争いが発生します。
 寛永九年(1632年)謀反ありとみなされ 加藤忠広は肥後五十四万石を
没収され かって賤ヶ岳七本槍の一人と讃えられ 朝鮮での虎退治で勇名を
はせた加藤清正の名前も二代目にして熊本の地から消えます。

 後を継いだ細川忠利が 熊本城入封にあたっては 西大手門に駕籠で
着き駕籠から降りて門をわたるとき 門の敷居に両手をつき、加藤清正の
築いた熊本城に向かって深々と頭を下げ 『 縁あって細川が加藤清正公の 
お築きになった熊本城をしばらくお預かりする事になり なにとぞよろしくお願い
申し上げます 』 と挨拶して入城された。

 そのとき冠を被っていた顎紐結びの房が西大手門の敷居に触れたので、
細川家の家臣は殿の紐が触れた箇所は絶対にまたがなかったといわれて
います。


  西合志町史編纂資料集 第一集      西合志町町史編纂協議会

   上記を参考とさせていただきました。


# by toki1935 | 2008-05-22 09:46 | 西合志町石造物

街角散策

宝篋印塔(ほうきょういんとう)
 宝篋印塔は、中国の後周の顕徳二年 (955年)呉越王が八万四千の小銅塔を
作り、宝篋印心呪経を収めたものを 模したものとされています。

 実在する場所は国道387号線沿い 須屋黒石の大慈院境内 三十三観音菩薩
また地蔵菩薩ともに安置してあります。
街角散策_b0041933_10575475.jpg

 合志市須屋 国道387号線の交差点近く 気をつけて通らなければ見過ごして
しまうほど家並みの中に 何気なくひっそりと佇んでいます。
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宝篋印塔は 形は時代とともに大きく変化して、江戸時代中期以降になると、
笠の隅飾部分が大きく外側にめくれた豪潮式宝篋印塔と呼ばれるものが登場してくる
 とのことです。
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 同所に安置してあります 三十三観音菩薩 (文久三年1883年)と地蔵菩薩
(元禄十四年1701年)です。 
 
  旧西合志にはその外に百花園に 二基  野々島薬師堂境内に 一基
  合計四基の宝篋印塔が祀られております。

 387号線をお通りの際、ちょっとお寄りいただき 無心に宝篋印塔にお手を合わ
せていただければ建立された等時の先人達と心が通い 何気ない会話が出来る
かも知れませんね。?

  本当にそんな ?!! 素晴らしいことが出来たらいいですね。
# by toki1935 | 2008-05-12 10:51 | 西合志町石造物